彼がいたジム

腹筋を鍛えることにおいて、BIG3に取り組むことは安全かつ必要十分なトレーニング効果をもたらす最良の方法である。腹筋は背骨を安定させるための筋肉だ。スクワットやデッドリフトで大きな重量を扱うことによって、姿勢を安定させるため腹筋には大きな負荷がかかる。その重量が増えるにつれ、腹筋のための個別種目では得られないだけの効果をもたらすことができる。

反して、世に広く知られるシットアップにおいては、背骨を曲げることが直接的に腰痛を発症・再発させる原因になる可能性がある。また、重量を伸ばすことにも限界があり、BIG3などの種目に比べて取り組む意義が少ない。

あくまで僕はそう学んできたので、腹筋のために別の種目を取り入れようという気分になることはなかった。毎日BIG3のことだけを意識して、ジムで別のトレーニングに取り組む人が目に入ってもこれっぽっちの影響も受けたことがない。周囲からなんと意見されようとも、僕は自分が正しいということがわかっていた。確実に正しい道の上を歩んでいて、よそ見をする意味なんてどこにもない。その自信は一切の不確定性を含んでいなかった。

腹筋ローラーの力を信じろ。その言葉を目にしたとき、僕はまたいつものように無視をすればいいのだと思っていた。もちろん僕はそれを真に受けない。それでも彼はずっとその言葉を繰り返していた。

僕はそれからも以前と同じようにBIG3だけを続けた。仕事が忙しくてもジムへ行く日は確保できるように努力したので、伸び悩んでいた記録も少しずつ右肩上がりになってきていた。学生のころはもっと重いバーベルを引いていたので、まずはそのころまで体組成を逆戻りさせる必要がある。トレーニーとしてのピークを過去にしてしまうには僕はあまりに若すぎる。

その間も彼はずっと主張を曲げなかった。腹筋しろよ。事あるごとにそう言ってみんなを煽り立てた。発破をかけていたと言った方が正しいのかもしれない。気づけば誰もが腹筋ローラーを転がしていた。気づけば誰もが腹筋をしていた。そして彼がいなくても、誰もが腹筋ローラーの力を信じるようになっていた。

いつからか彼はあまり腹筋ローラーの話をしないようになった。今さらになって、あえて自分がその主張をする意味が見出せなくなってしまったのかもしれない。僕自身も彼が腹筋ローラーの話をしていたことを忘れかけていた。そこにはただ過去に何かをやり遂げた男がいて、また別の方向を向いてなぜか焦燥感を抱えた男がいた。

しばらく会えなくなるかもしれないね。彼はあまりに唐突にそういったので、僕はどうせ冗談か何かだろうと思った。数日経つと、彼は元いた場所から綺麗さっぱりいなくなっていた。なぜだか理由はわからない。きっと彼には彼なりの理由があるのだろう。友達になれたと思っていたけど残念だった。

僕は今まで通りジムには行ってるし、種目はBIG3しかしてない。もちろん他の種目に手を出してみようかと気持ちが揺れることもない。それでもジムにある腹筋ローラーが目に入ると、どうしても彼の姿を思い出してしまう。このジムに来たことはないけど、腹筋ローラーがそこにあるだけで、それを転がしている彼の姿が僕の目の前に浮かぶ。しかし彼は去った。いつか戻ってくるかもしれないけど、今ここにはいない。僕にできることは、この現状を理解した上で彼の帰りを待ち続けることだけだ。

参考文献